エイジサイクル 岩島店長インタビュー/いつか理想の自転車を
大学時代にレースを始め、強豪レーサーとして数々のトップレースで活躍。同時になるしまフレンドで勤務し、名物店員となった岩島啓太さん。2015年に独立して自身のショップ、エイジサイクルを立ち上げる。これだけ聞くとよくある話だが、岩島さんの頭の中には、知られざる想いと夢があった。
意外な生い立ち
「生まれは東京。三鷹や中野の辺りで幼少期を過ごしましたが、父の転勤で小学生のときに3年間イギリスにいました。中学のときは香港。さらに上海でも生活しました。大学受験で日本に戻ってきたんです」
勝手に抱いていたイメージからすると、意外な経歴だ。東京は日野市でエイジサイクルを営む岩島さんである。かつてなるしまフレンドのスタッフとして働きながら、各地のレースで上位入賞を繰り返していた強豪レーサーでもある。しかし、ロードバイクを始めたのは大学入学後と、決して早くはなかった。
「大学の授業の一環でエコラン(規定の電池容量でどれだけの距離を走れるかを競う低燃費競技会)用車両の製作をやってたんですが、それに自転車の部品を使うので、雑誌でいろいろ調べてたんです。雑誌を見ているうちに欲しくなって、ロードバイクを買いました。それがスポーツバイクに触れるきっかけですね。だから僕は機材から入ったんです」
ちなみに、一台目に買ったのはピナレロのプリンスSL。いきなり当時のロードバイク界の頂点に君臨するスーパーバイクである。
「最初はルイガノのクロスバイクかな~なんて思ってたんですが、見ているうちにだんだんいいのが欲しくなってしまったんです。雑誌にレースの情報がたくさん載っていて、レースに出てみたい、と。だったら最初からいいのを買おうと」
最初のレースは、鈴鹿で行われたエンデューロレース。そこで5位に入賞した。
「『これは自分に向いてるんじゃないか?』とそこで本格的にはまりました。海外時代はラグビーを、大学時代はアイスホッケーをやっていたので、マイナースポーツにはまる傾向にあるのかもしれません」
その筋肉質な体形からアイスホッケー時代についたあだ名が、なるしま時代にも親しまれていた“超合金”だ。練習をしているうちに、「一人で走ってたんじゃ強くなれない」と感じて、強豪クラブチームを擁するなるしまフレンドの門を叩く。
「なるしまで走らせてもらうようになり、おきなわの市民200kmに初めて出場して3位に入れたんです。そんなこともあってお店との交流も深まり、『うちで働いてみないか?』と声をかけてもらいました。当時のなるしまはスタッフ全員が走れるということが売りの一つでしたから」
その後、ツール・ド・おきなわでは、2010年に市民210kmで優勝。2012年にはジャパンカップ・オープンでも勝っており、ニセコクラシックでは年代別優勝を達成、UCIグランフォンド世界選手権への出場も実現している。押しも押されもせぬ強豪レーサーである。
意外な夢
「でも最初はビルダーになりたかったんですよ。店員になるとき、なるしまの会長と面接をしたんですが、そこで『実はビルダーになりたいんです』と言った覚えがあります。その前にパナソニックサイクルテックに応募して面接に行ったんですが、見事に落ちました(笑)」
岩島さんはぐいぐい自分語りをするようなタイプではないから、聞けば聞くほど面白エピソードが出てくるのだが、ビルダーを目指していたとは初耳だ。
「もの作りをしたいという想いが強かったんですね」
しかし9年もの間、なるしまフレンドのスタッフ/メカニックとして勤務することとなる。
「なるしまでは幅広い自転車を見ることができて、楽しかったですね。強い人も周りにたくさんいましたし、ツアー・オブ・ジャパン、ツール・ド・北海道、ツール・ド・熊野、ツール・ド・おきなわなどにも出させていただいて、いい経験をさせてもらいました」
そして2015年に独立、エイジサイクルをオープンする。場所はご実家の敷地内にある、小さな小屋。もともとはコーヒーショップだった建屋だ。ご本人は「日本一狭いショップです」と謙遜されているが。
独立したきっかけは?
「なるしまのような大規模店だと、お客さんの幅広いニーズには応えられるんですが、お客さんと距離感があるんですね。親しくさせていただいていたお客さんもいらっしゃるんですが、一人に時間を割けない。とにかく忙しいので、お客さん一人ひとりとじっくり……という感じではない。だからもう少しお客さんと密にコミュニケーションをとりたいと思ったんです」
ミスのないショップを目標に
「うちの近くに患者を全然待たせない歯医者さんがあるんです。15分単位できっちり予約をとって。それに倣って、うちも平日は完全予約営業にしました。自転車整備って安全に関わる仕事なので、作業者が忙しくて余裕がないと、ミスをおかす可能性がある。そういうミスのないショップにしたかったんです。完全予約営業にすれば余裕をもって作業ができますし、お客さんとじっくり向き合えるようになります」
メジャーなショップとは真逆な形態である。一人のお客さんに時間をかけると、当然だがショップとしての売り上げは落ちる。経済的な不安はなかったのだろうか。
「最初は全然売り上げがなかったので、かなり不安でした。これからどうなるんだろう?って。2015年の5月に開店したんですが、半年くらいでお客さんに認知していただいて、年末にはある程度目途が立ちました。その年のうちにショップチーム(MIVRO)も立ち上げて、メンバーも増えました。なるしまに勤めていたという経歴があり、レースも走らせてもらっていたので、その看板が大きいと思います」
MIVROには現在、10代から70代までの幅広い年代の40名弱が所属しており、実業団レースをはじめとしたレースイベントに参加している。2024年度のJBCF・Jフェミニンの年間総合優勝を獲得したのはチーム員の女性である。
独立して10年の節目に
では、今後の目標は?
「独立して10年が経ちますが、今、ビルダー(細山製作所)に弟子入りしてフレーム作りを学んでいるところです。この間、一本作りました。これからは工房も作って、本格的に製作に取り組みたいと思っています。もちろんショップの営業と並行してですが」
なんと、ビルダーになる夢は諦めておらず、それどころか、それに向かって確実に歩みを進めていた。
「ビルダーになりたいという想いはずっと持ち続けていました。これから、ジオメトリや素材をいろいろ試してみたいと思っています。とはいえ、まだ始めたばかりなので、ビルダーとしての方向性を掴むのはこれから。行きつくところがどこなのか、まだ分かりません。鉄なのかカーボンなのかチタンなのか。これまではカーボンがベストだと思っていましたが、やってみないと分かりません。修行を始めてまだ日が浅いですが、3Dプリンターも導入するつもりです。まだいつ本格的にビルダーとしての営業を始められるか分かりませんが、いつかは自分の理想の自転車を作りたいですね」
失礼を承知でいうと、岩島さんは決して若者ではない(取材当時45歳)。新たに勉強して挑戦して開拓して、同じ自転車のこととはいえ全くの別種の仕事を始めるというのは、膨大なエネルギーが要る。しかし、その歳になるとどうしても腰が重くなるものだ。
しかし岩島さんは心の中に情熱を燃やし続けていた。一見物静かに見える人ほど、その情熱の燃焼温度は高く、燃焼時間は長いものだ。岩島さんのその炎の熱で「理想のフレーム」に火を入れて、その炎の光でお客さんの自転車ライフの道筋を照らしてほしいと思う。