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プロトライアスリート古谷純平さんインタビュー(前編)/出会いと挑戦と葛藤と終幕

プロトライアスリート古谷純平さんインタビュー(前編)/出会いと挑戦と葛藤と終幕

日本選手権優勝、アジア選手権優勝、アジア競技大会2冠、日本ランキング3年連続1位など、トライアスリートとして輝かしい戦歴を誇る古谷純平さん。2024年には、それまでの主戦場だったオリンピックディスタンス(ショートディスタンス)からロングディスタンスへ転向し、プロトライアスリートとして再出発。2025年12月に開催されたアイアンマン(2025/西オーストラリア)では、7時間43分というアジア歴代最速タイムと3位表彰台を獲得し、大きな話題となった。ビオレーサーサポートライダーであるそんな古谷選手へのロングインタビュー。前編では、幼少期からオリンピックへの挑戦までの軌跡を辿る。

 

トライアスロンとの出会い

1991年、高知県生まれ。今では日本を代表するトライアスリートとして知られる古谷さんだが、幼少期は水泳を本格的にやっていた。

「父親が保険会社に勤務しており、転勤族だったんです。幼少期は転々としていて、小学校は3つ行ってます。高知で生まれ、大阪に引っ越して、その後また高知に戻ってきて、愛媛に行って、最後に大阪で落ち着いたという感じ。でも、スポーツは欠かしませんでした。幼稚園からスイミングスクール選手クラスに入って、小学校六年生まではずっと競泳をやってました」

「同時にマラソンやサッカーも本格的にやっていて、サッカーでは小学校時代に愛媛県大会でベストフォーに入って優秀選手賞をもらったりしてました」

 

スポーツづくしだった古谷さん。今から思えば、スイム、ランの素地はこの頃からできていたのかもしれない。トライアスロンとの出会いは小学校3年生のときだった。

「競泳をやっていて、マラソン大会にもよく出ていて、まあ泳いで走れると。自転車なんて誰でも乗れるじゃないですか。だから『あとは自転車乗るだけだ』なんて言いながら小学校3年生のときに初めてトライアスロン大会に出たら、そこで優勝しまして。そうして競泳、マラソン、サッカーに加えてトライアスロンにもよく出るようになりました。もうずっとスポーツをやっていた小学時代でした。一番好きだったのはサッカーだったんですけどね」

活躍できる世界へ

小学校6年生の3学期に大阪に引っ越して、大阪の中学校に進学することになる。そこがたまたま陸上の強豪校だった。

「全国中学校駅伝に2年連続で出場している大阪屈指の強豪校だったんです。『競技を真剣にやるなら全国に行きたい』という思いがあったので、中学3年間は陸上競技に打ち込みました」

中学校3年生の冬、全国都道府県駅伝(毎年広島で行われる都道府県対抗の駅伝大会。選抜された中学生2人、高校生3人、社会人2人の7人による混合チームで走る)の大阪府代表に選出された。

「高校ではサッカーをやるつもりでいたんですけど、中学3年生で全国都道府県駅伝の大阪代表に選ばれちゃって、『陸上やめるのもったいないかな』と」

しかし、このときはまだ中学生だ。「結果がでるほう」より「楽しいほう」を選んで当然の年齢である。それでも古谷さんは「結果が出そうな種目」を選んだ。

「根がアスリートというか、向上心が強かったんでしょうね。中学進学のときも、サッカー部に入るつもりだったんですが、陸上部が強い中学だったので、『このチームだったら全国大会に行けるかもしれない』と考えました。自分が活躍できる世界とは?というところが判断軸になっていたんだと思います」

 

日本一を狙える

そこで京都の洛南高校を受験、見事に合格する。スポーツの強豪校にして難関大学に多数の合格者を出す名門私立高校である。スポーツだけでなく勉学にも長けた少年だったのだ。もちろん陸上部に入るが、諸事情により退部することになる。

「退部してから半年は何もしていなかったんですが、高校2年の3月にトライアスロンの記録会に出てみたんです。日本トライアスロン協会の強化指定選手を決めるための記録会だったんですが、スイムで0.1秒だけ足りなくて強化指定選手にはなれませんでした。でも、半年もブランクがあったのにパッと出てここまでのレベルだったら、本気でやったら勝負できるな、と。全国大会に出られるというレベルではなく、これなら日本一を狙えるんじゃないかと。そう考えて本格的にトライアスロンを始めました」

高校3年生の4月にトライアスロンのクラブチームに入り、その3ヶ月後の夏にはジュニアの日本代表に選ばれ、アジア選手権などに出場。大学ではインカレ2連覇を達成し、2015年には日本選手権で優勝、念願の日本一を実現することになる。

「もちろん練習はきついんですけど、幼少期からずっと持久系のスポーツをやってきてるので、練習はきつくて当然というか、そこ(練習のきつさ)に対する耐性は高かったと思います。幼少期からそれが生活の一部でしたから。それよりも、自分の努力が結果に結びつていくのが純粋に楽しくて。それを今も続けているというわけですね」

 

オリンピックが目の前に

「とはいえ、今から思えば大学生のときは結構チャランポランでしたよ。親元を離れて一人暮らしを始めて、兵庫のクラブチームに籍を置いたまま東京に出てきているので、チームの練習も一切ない。だから練習をやる/やらないはもう自分次第。今考えたらめちゃくちゃぬるかったなと思いますけど、そのチャランポランな取り組みレベルでインカレに勝ててしまっていたので、ちょっと調子に乗ってたというか、勘違いしてたと思います」

そんな大学生活も3年を迎えて就職が見え始めると、焦りを感じはじめる。

「3年生の夏ぐらいに、『ここまで人生を全てスポーツに捧げて生きてきたのが、大学4年生で終わりになっちゃうんだ』と。有終の美を飾りたいなと思って、ラスト1年は本気でやり始めたんです」

当時は、卒業後はスポーツを引退をして就職をして働くつもりでいたのだ。だが……。

「その大学時代のラスト1年で日本ランキング4位まで上がることができて、同時に東京オリンピックの開催が決まったんです。『あ、これはやめられないな』と」

当然だろう。「母国開催のオリンピックへの出場」が目の前にぶら下がっているのだ。

 

葛藤

ときは大学4年。

「でも、そのときはもう三井住友海上に内定をもらってたんです。僕は競技を引退して普通に社会人として働くつもりでした。でも、日本ランキング4位まで上がって東京五輪が決まった。僕、小さい頃からの夢がオリンピックに出場することだったんです。それが現実的なレベルで、しかも母国開催で達成できるかもしれないって、そんな素晴らしいことはないですよね」

古谷さんは諦めることなく、会社に折衷案を模索する。

「当時の三井住友海上の人事部に連絡をして、説明をしたんです。『こうこうこういう理由でトライアスロンは続けたいんです。でも内定辞退はしたくないんです。だから住友海上のトライアスロン部を作ってもらえないですか』って。今から思えばめちゃくちゃな提案をしたんですね」

当然、最初はダメもと、当たって砕けろ的な提案だったという。

「そうしたら、人事部の方が『古谷さんの意思は分かりました。一度、会社に来て説明をしてもらえますか』という話になり、資料を作ってプレゼンをしました。答えは『一回預かります』と。すぐに『もう一度来て説明をしてください』と連絡があって、行ってみたら2度目は人事部長がその場にいらっしゃったんです。そこで2度目のプレゼンをしたら、その場で人事部長から『分かりました。 トライアスロン部を作ってやりましょう』と。『サラリーマンとアスリートという二足のわらじを履いて頑張れるポテンシャルを君は持っている。ぜひ頑張ってください』と言っていただけたんです。完全にダメ元だったので、言い出した本人が一番驚きました」

夢叶わず

そうして2014年に三井住友海上へ入社、同時にトライアスロン部が発足する。オリンピックへの本格的な挑戦が始まった。

そうして、正社員雇用ながら出社は週2で一日3時間。それ以外は練習に当てられるという、なんとも恵まれた環境が与えられる。ほぼプロアスリートの生活である。しかし、2016年のリオ、2021年の東京、2024年のパリという3度のオリンピックには、一度も出場が叶わなかった。

「2016年に関しては、オリンピック直前の4月に日本の枠が2から1になってしまったんです。僕はそのとき2番手の評価でした。リオは補欠として現地に帯同しましたが、出場はできず。2021年の東京は、コロナで延期になってなかったとしたら、おそらく僕が選ばれていたと思います。でも1年延期になったことによって、2021年に国籍変更した選手が日本代表候補に入りました。しかも、2021年の最終選考レースで僕は絶好調で、スイムも日本人の中で唯一先頭集団に入って、バイクも先頭集団でガンガン行ってたんですが、パンクしちゃったんですよ。そこでチャンスを逃して、東京にも出場できず。パリに向けては、もう1年前ぐらいから精神的にいっぱいいっぱいになっちゃって。メンタルブレイクして、2024年の5月にパリオリンピックの最終選考レースのスタートラインに立つところまでは持っていけましたが、全くパフォーマンスを発揮できず」

古谷さんのオリンピックへの挑戦は幕を閉じた。

(後編に続く)

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