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YURIfit・北海道エスポワールプロジェクト代表・日本代表コーチ 小橋勇利さんインタビュー(前編)/北海道から世界へ
元プロ選手として国内外を走り、現在はフィッターとして、北海道エスポワールプロジェクトの代表として、そして日本代表のコーチとして活躍する小橋勇利さん。しかし、その半生は決して順風満帆ではなかった。それが故に、今の彼があった。彼の人生の歩みを辿るインタビュー。
小4で初レース
雄大な自然に囲まれた北海道の日高で生まれ育った。ご両親が自転車乗りだったわけでも、周りに自転車をやっていた人がいたわけではなかったが、小さい頃から自転車が好きだったという。
「子供の頃からラリードライバーになりたいと思うほど車が好きだったので、交通手段というよりは『スピードが出せて楽しい乗り物』として自転車に乗り始めたんです」
小学校4年のとき、新聞でキッズ向けの自転車レースの広告を見つけて出場する。スポーツバイクにビンディングシューズという本格的な参加者ばかりのなか、普通の服と普通のシューズでホームセンターで売っているようなかご付きのキッズバイクにまたがり、何回も転びながらもポールショットをとり、上位入賞した。それがきっかけで自転車レースの世界に惹かれることになる。
「転ばなければもっと上位にいけたのに……と悔しかったですね。親も『この子はもっと頑張れば伸びるかもしれない』と期待をしてくれて、スポーツバイクを買ってくれたんです。といっても、3万円くらいのMTBでしたが。でも僕らとしては『ものすごくいい自転車を手に入れた』と。3万円もする自転車を買ったんだから、次はいけるだろう!とレースにエントリーしたら、なんとロードレースだったという(笑)。ロードとMTBの区別もついてなかったんです。会場に行ったらピリピリした雰囲気で、『こんな自転車で出ていいのか?』ってビビっちゃって。主催者の方に『この自転車で出てもいいですか?』と聞きに行って『小学生だから大丈夫だよ~』と。もちろんみんなには付いていけませんでしたが、ビリではなかったです」

Photo:Itaru Mitsui
これでどこまで行けるだろう?
そうして小橋さんはどんどんレースにはまっていく。しかし小4といえば我儘盛りの年頃である。他の子がいい自転車に乗っていたり、勝てなかったりしたことで嫌にはならなかったのだろうか。
「そのような感情はなかったですね。この乗り物で自分はどこまで行けるんだろう?という好奇心のほうが強かったです」
ロードバイクを手に入れ、本格的にレースに出始め、入賞し優勝し、どんどんステップアップしていく小橋さん。生まれながらの身体能力に加え、向上心と負けん気が強かったのだろう、同年代では敵なしという存在になり、主催者に嘆願して上のクラスで走らせてもらうこともあったという。そして中学3年の頃から「ツール・ド・フランスに出たい」という夢を抱くようになる。
舞台を道内から全国へと移した中学3年の頃、その走りが自転車競技連盟の目に留まり、ジュニアの日本代表の合宿に参加する。
「当時、高校進学に悩んでいたんです。北海道は雪で走れない期間が長いので、冬季のトレーニングはローラーのみ。春先に行われるレースには外でほとんど走らないまま出場することになります。そんな状況では、前なら絶対に勝てたような選手にも付いていけなくて、『自転車を本格的にやるなら北海道では無理なのかな』と」
その合宿に参加されていた愛媛県立松山工業高校の指導者と知り合ったことで、愛媛県への進学を考えるようになる。人生が大きく動き始めた。
「その後、実際に愛媛に行って高校の練習に参加させてもらったんです。そこで素晴らしい練習環境に感動して、この高校に進学したいと思いました」
快進撃、始まる
高校入学と同時に北海道から愛媛へと引っ越し、アパートを借りて一人暮らしを始める。少年にとっては大きな決断だったろう。
「当時はとくに特別なことだとは思いませんでした。自転車をやるためにこうするしかないんだったらしょうがない、という感じでしたね」
そうして一人で勉強しながら自転車に打ち込む高校生活を送る。競技成績は輝かしいものだった。1年生でインターハイで優勝し学生日本一に。その後はマークが厳しくなり、今まで体験したことのないレース展開を強いられるが、レース勘をつかんでからはトラックレースも含めると年間50勝を挙げるなど、日本では負けなしの存在となる。

Photo:Hideaki Takagi
しかし、目標はあくまで世界だった。
日本では通用する。世界で活躍するにはどうすればいいのか。
「いろんなことを言う人がいました。『日本でもっと経験を積んだほうがいい』と言う人もいれば、『できるだけ早くヨーロッパに飛び込んだほうがいい』と言う人もいて。でも当時は『なるべく早く本場で走る』がいい選択とされていたので、高校を卒業しヨーロッパに単独で行くことにしたんです」
そのためにフランス語を勉強し、ボンシャンス(フランスを拠点に活動するロードレース育成チーム)の福島晋一氏に連絡をとり、フランスの強豪チームを紹介してもらって履歴書を送り、加入してフランスを走ることになる。
しかし、世界の壁は高く厚かった。
フランスでのレース活動
「1年目は悪くありませんでした。ネイションズカップの1ステージでシングルフィニッシュできましたし、新人賞でも上位に入れて監督も評価してくれていました。でも言葉の壁や金銭面での苦労など、生活するだけでもストレスがありますし、膝を痛めて日本で手術をして半年ほど乗れない期間があったりと、フランスでのレース活動は上手くいかなかったんです」
スポンサーを募り、後援会を作って活動資金を調達しながら、2年間フランスのレースを経験するが、怪我もあって単独でフランスで走る自信を失いかける。ちょうどその頃、日本ナショナルチームがフランスを拠点に活動することになったため、3年目、4年目はナショナルチームで活動を続けた。
「3年目にはU23代表として世界選手権に出場しました。その年は調子がよく、チームメイトともうまく協調できて、これまでにないくらいのいい位置で残り5kmを迎えられました。脚も残っていて、トップがもうすぐそこにいる好位置。なのに、目の前で落車が発生して脚止めをくらってしまい、願ったような結果にはなりませんでした」
レースに「たられば」は禁物だが、「あの落車がなかったら……」と考えてしまう運命の悪戯である。
「ロードレースって、結局そういうものなんです。『レースってこういうもの』『だから次がある』が永遠に続く。でも、強い選手はチャンスをものにできるんです。そのときに、自分はこのままでいいのか?と迷いが生じてしまったんです」
冷静な自己分析
単身ヨーロッパに渡って武者修行。美談に仕立て上げられやすいエピソードである。しかし、小橋さんは自身のそれを冷静に自己分析する。
「どうすれば世界のトップにたどり着けるのか、ずっと悩んでました。日本と世界のギャップが大きすぎるというか、どうすればいいのかすら分からりませんでした。今となっては、僕はノープランで飛び込みでヨーロッパに行くことは得策ではないと思います。実際、それで成功している選手私の知る限りほとんどいません。むしろ玉砕の方が多い」
「ヨーロッパに行けば強くなれるわけではなく、戦える状態になってから行かないと意味がない。向こうに行ってもただレースに参加するだけになってしまう。やっている以上、完走するだけはなく、勝たないと意味がないですから。自分は『なぜ日本で勝てていたのか』の分析もせぬまま、適切なステップを踏まずに。無謀だったなと思います」
このままでいいのか……と悩んでいたそのときに、「この経験を後進に伝えるべきだ」と思ったという。失敗や挫折と捉えても仕方がないことなのに、それをプラスのエネルギーに変えられるところが小橋さんのいいところだ。