梶原悠未さんロングインタビュー(前編)/メダリストの苦悩
高校から自転車競技を始め、瞬く間に世界に通用する日本人選手へと成長した梶原悠未さん。2021年に行われた東京オリンピックでは銀メダルを獲得し、自転車トラック競技では日本人女子として初のメダリストとなった。しかし夢はあくまで「オリンピックで金メダルを獲ること」であり、2024年のパリオリンピックではそれが期待されたが……。沖縄で合宿中の彼女にリモートインタビューを行い、高校生のときからビオレーサーがサポートをしている梶原悠未という一人の選手の、今とこれからに迫った。
小5のときに見た夢
梶原さんがリモートの画面に表れたとき、あれ?と思った。約半年前に同じくリモートで取材をさせていただいたときのような元気がないように感じられたからだ。覇気がないというか、表情がどこか悲し気というか。パリオリンピックでの不調が原因かと思いきや、それだけではなかった。日本自転車競技界に彗星の如く現われた彼女は、ここしばらくの間、様々な苦悩を背負って走っていたのだ。
インタビューの前に、梶原さんの経歴を簡単に振り返る。埼玉県で97年に生まれた梶原さんは、1歳から水泳を始め、幼少期は競泳に打ち込む生活を送っていた。
「小学5年生のとき、北島康介選手が北京オリンピックで金メダルを獲得する姿をテレビで見て、『私もいつかオリンピックで金メダルを』という夢を抱いたんです」。
小学校時代は全国大会で表彰台に立つなど実力を付けたが、中学生最後の全国大会の予選で、標準記録に0.02秒届かなかった。
「練習や他の大会ではもっと良いタイムが出ていたのに……。本番で力を発揮できなかった自分のメンタルの弱さに落ち込んでしまい、『もうオリンピック選手にはなれないかもしれない』と、母と2人で車の中で泣きました」。
「こんなに頑張っても全国大会に出られなかったということは、神様が『他の競技をやりなさい』って言っているのかもしれないね」。
そのとき、お母さんが放ったこの言葉が、自転車競技へとつながる。
自転車競技との出会い
高校進学を機に自転車競技を開始。天賦の身体能力に加え、競泳で鍛えられた体幹と心肺能力も武器になったのだろう、なんと自転車を始めて2カ月でインターハイに出場してしまう。それに留まらず、高校1年生の全国選抜大会で3種目優勝し、ジュニアの強化指定選手に加入するなど、瞬く間に全国レベルの選手に成長。全日本チャンピオンも獲得し、国内では無敵の存在に。自ずと、目標は「世界」になる。
2016年、「世界選手権優勝」と「東京オリンピックでの金メダル獲得」という目標を掲げ、大学へ進学。「栄養学・スポーツ法学・スポーツ産業学・バイオメカニクスなど、アスリートに必要なすべての知識を学べるから」という理由で、筑波大学を選んだ。
「私は自分で考えるのが好きなんです。論文を読み、確証あるデータをもとにメニューを組み立てて、自分を検体にして試し、レースの結果からフィードバックを得て、改善して、勝てるトレーニングメニューを作り上げていく。その過程がすごく楽しいんです」。
それは単なる“フィジカルお化け”ではない、梶原悠未という選手の強みでもあった。
東京五輪での銀
ステージを世界へと移した後も快進撃は止まらず、2020年の世界選手権ではオムニアムで優勝、世界チャンピオンに輝く。そうして2021年の東京オリンピックでは女子オムニアムで見事銀メダルを獲得する。自転車トラック競技で日本人女子がメダルを取ったのはこれが初だ。しかし、あくまで目標はオリンピックの金メダルであり、彼女自身はこれを“挫折”と捉えている。
「銀メダルで終わったのがすごく悔しくて。これまで色々な試練と課題を乗り越えたのに、金には届かなかった。『じゃあ金メダルを獲ったジェニファー・ヴァレンテ選手は私以上に辛い思いをしてきたんだ』『これから私はどれほど苦しまなきゃいけないんだろう』とネガティブな思考にとらわれてしまい、レースでも結果を出せなくなってしまいました」
その燃え尽き症候群を克服するため、2022年にはコンチネンタルホームに加入しヨーロッパのワールドツアーを経験、多くの気付きを得て再出発しようとした矢先、落車で大けがを負ってしまう。
そしてパリ
そんななか挑んだ2024年8月のパリオリンピック。女子チームパシュートでは日本記録を更新する4分13秒818のタイムでフィニッシュしたが、全体10位で予選敗退。目標としていた女子オムニアムでも17位に終わる。「金メダルだけを狙う」と公言していた梶原さんにとって、もちろんこれは不本意な結果だろう。オリンピックの舞台に立てること自体が偉業ではあるものの、第三者から見れば、「世界一」だけを見つめてこれまで凄まじいスピードで成功への階段を駆け上っていた彼女の、初めての大きな不発だったかもしれない。
そんななかでの今回のインタビューである。正直、インタビュアーとしては聞きづらいテーマである。不快にさせてしまう可能性だってあるし、傷をさらにえぐってしまうかもしれない。こちらだって、記者の前に一人の人間だから、人の話しづらいことを話させたくはない。触れられたくないところを突きたくはない。それはどんな執筆者だって同じ想いだ。実際、軽く検索した限りでは、「パリオリンピックにおける梶原悠未の不調の原因」に真正面から触れた記事は見当たらなかった。しかしこれは仕事で、ここはメディアである。やるべきことはやらなければならない。
当日、時間通りに沖縄合宿中の梶原さんが画面の中に現れた。そのときの冒頭の印象である。しまった、と思ったし、申し訳ない気持ちで一杯になったが、事前に質問事項を送付して了承を得ているし、後戻りはできない。重苦しいインタビューが始まった。