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白戸太朗さんインタビュー(前編)/日本におけるスポーツの在り方とは

白戸太朗さんインタビュー(前編)/日本におけるスポーツの在り方とは

プロトライアスリート、ロードレースの実況者、トライアスロンショップの経営者、都議会議員など、さまざまな顔を持ち多方面で活躍されている白戸太朗さん。ビオレーサーファミリーでもある白戸さんに、トライアスロンの魅力、これまでの経歴、アスロニアを立ち上げた経緯、今後の展望などを聞くロングインタビュー。

自転車部が後押ししたトライアスロンデビュー

トライアスロンを始めたのは20歳のとき。それまではスキー小僧だった。

「中学、高校、大学とずっとクロスカントリースキーをやっていました。当然ですが、スキーって陸トレ(ランニングなど、雪上以外で行うトレーニング)が多いんです。日本では一年中スキーができるわけではないので、雪の上にいるより陸トレをしている時間の方が長いんですね」

さすがに髪の毛には白いものが混じっているが、白戸さんは以前お会いしたときと全く変わっておらず、溌剌とされていた。

1966年京都生まれ。1990年より18年間、プロトライアスリートとして世界を舞台に活躍。日本人として初めてトライアスロンワールドカップを転戦した。2007年、株式会社アスロニアを設立、代表取締役を務める。スポーツナビゲーターとしてスポーツ番組での実況・解説なども行っていた。20017年からは2期8年に渡り東京都議会議員を務めた。著書に「仕事ができる人はなぜトライアスロンに挑むのか(マガジンハウス刊)」、「挫けないちから(清流出版)」などがある。

 

「大学のときですかね、その陸トレにマンネリを感じるようになってきたんです。『陸トレのモチベーションアップになるものはないかな』と考えていたとき、トライアスロンという競技を知りました。陸トレでランニングはやってたし、自転車にも乗れるし、小さいころは水泳もやったことあるし、ちょうどいいんじゃないかなと」

白戸さんのトライアスロンデビューには偶然も味方をした。

「大学のスキー部の寮の隣の部屋がたまたま自転車部で、彼らと仲がよかったんです。同期には、シマノレーシングで走ることになる菊田潤一とか、ブリヂストンアンカーで走ってた佐々木友一、競輪選手になった案浦攻などがいました」

「当然僕は自転車関連のものなんか持ってないし、知識もないなかで、たまたま自転車部のメンバーたちが『俺らの自転車使えば?』『このウエア使っていいよ』『自転車のこと教えてやるよ』と、いろんなサポートをしてくれたんです。最初のハードルを自転車部のみんなが越えさせてくれたというか。自転車部が隣だったことが、トライアスロンをやるはずみになったともいえますね」

世界を目指し、プロへ

そうして白戸さんは自転車部の練習に参加し、自転車の経験を積む。大学4年のときにはツール・ド・北海道のサポートカーの運転手も務めたという。

「『メンバーが足りないから、太朗、選手として走るかサポートカー運転するかどっちかやれ』と言われて、『俺が走れるわけないだろ』『じゃあ運転手な』って(笑)。僕は後にJスポーツのロードレースの実況をやらせてもらうことになりますが、自転車との関わりは最初から深かったと思います」

そうしてめでたくトライアスロンデビューを果たし、成績を伸ばしていく。

「もともとランとスイムはそこそこできたので、自転車がある程度走れるようになると、1988年頃にはトライアスロンで結果が出るようになり、日本のトップを目指したいと考えるようになりました。最初はオリンピックディスタンスをメインでやっていて、2年ほどで日本のトップに近いところまで成績が伸び、もっと追求したい、世界で戦ってみたい、という欲が湧いてきたんです」

しかし、戦いのステージが上がるにつれて、遠征するにも機材にも資金が必要になる。

「アルバイトだけでは間に合わないので、90年頃から活動費を得るためにスポンサーを募るようになり、結果的にプロになったというわけです。プロになりたかったというよりも、本格的にトライアスロンをやろうと思ったらプロになる必要があったんですね」

そうして、プロのトライアスリートとしてオリンピックディスタンスで世界選手権の日本代表になること6回。91年からは、トライアスロンのワールドカップシリーズに日本人として初めて転戦するようになる。

「世界で自分の腕試しをしたかったんです。それまでは、日本人選手は世界選手権に参加することはあっても、転戦まではしていなかったんですね。当時はまだオリンピック競技にはなっていませんでしたし、わざわざ海外まで行って参戦する人はいなかったんです」

「リザルト追求」からの脱皮

当時はトライアスロンワールドカップの創成期である。

「世界から集まった30人ほどの選手が、世界中あちらこちらのレースを転戦するんです。サーカス団みたいなもんですよ。そういう中に唯一の日本人として、というよりも唯一のアジア人として僕が入ってました。語学も堪能だったわけではないし、その頃はメールなどもなかったので、いろいろと苦労はしましたが、非常に稀有な経験をすることができましたね」

96年、オリンピックディスタンス(ショートディスタンス)からアイアンマン(ロングディスタンス)へ転向する。

「種目としては同じトライアスロンなんですが、ショートとロングは別の競技ですね。陸上でいうと、5000mの選手がフルマラソンにチャレンジするようなもの。走るという行為は一緒ですが、練習方法も違えば戦略も全く違うし、メンタリティーも全く違うし、機材も準備の方法も違います」

「96年からアイアンマンに出場をし始めて、おかげさまで初年度から世界選にも出られるようになり、しばらくアイアンマンレースの転戦をしてました。最初の頃は成績もよく、世界30番目ぐらいまでは行ったのかな。よし、これからだ!と思ってたんですが、そこから伸びず。年齢的なものや社会的な立場などいろいろあって、『トライアスロンのリザルトだけを求めるフェーズから、トライアスロンを含めたスポーツの広げ方を考えるフェーズに移行するべきかな』と考えたんです」

日本と海外の大きな差

その思考の変化には理由があった。

「というのも、世界中を転戦していて、日本のスポーツと世界のスポーツに大きな差を感じたんです。トライアスロンだけではなく、マラソンでも自転車でも他のスポーツでもそうですが、日本人ってものすごく真面目だから一生懸命にやるんだけど、自分に厳しいというか、楽しそうじゃないんです。でも海外の選手やレースの現場は楽しそうなんですよ。いや、競技レベルは高いですよ。レベルは高いけど、本当に楽しそうにやってる。それはエリートと一般アスリートにも共通しているんです。同じスポーツなのに全然違うなと。この違いは一体何だろう?と。10年ぐらい海外にいてずっと疑問に感じてたんです。このギャップを埋めないと、日本はいつまでたっても『スポーツって変な奴がやるもの』になってしまう」

その国内外のスポーツに対する姿勢の違いとは、どこから生まれるのだろう?

「日本では、指導者もスポーツをやる本人も、『真面目にやらなきゃいけない』というイメージが強いんでしょうね。もちろん海外選手も真面目にやってますが、『どうせしんどいことをやるなら楽しくやろう』というマインドを感じるんです。日本は『ヘラヘラしながらやってんじゃない!』みたいなところが、指導者にも競技関係者全体にも流れていたのではないでしょうか」

「一方、欧米は目的に向かっていればスタイルは自由。日本人は辛くても苦しくても練習を続けることが美徳といわれますが、しんどいことを無理してやってると続かないんですよね。だから途中で心が折れてしまったりする。でも海外の選手は楽しむんです。同じことをやるにしても楽しくやれたら比較的続けやすいですよね。『今日はいい練習ができなさそうだ』と判断したらスパッと切り上げたりする。スポーツなんて、やらされるものじゃなくて、本当は自分が好きでやってるものなので、楽しくやればいいんですよ」

「そんなことを考えていたとき、スポーツ中継の解説をやってほしいという依頼がくるようになりました。僕はずっと世界を回っていてある程度解説はやっていましたが、これをきっかけにして、トライアスロン以外のスポーツでも『伝える側・説明する側』の仕事もやるようになりました。もちろんプロ選手を完全に辞めたわけではありませんが、競技をするだけのプロから、98年くらいからは、伝える・広める・教えるということを同時にやるように活動を切り替えたんです」

99年からはJスポーツでロードレースの中継の仕事を始める。三大ツールの中継を白戸さんの実況で楽しんだという方も多いだろう。プロトライアスリート&解説実況者として活動していた2007年、1つの節目となる出来事が起きる。アスロニアの設立だ。(後編に続く)

サイクリストにとって白戸さんはロードレースの実況でもおなじみだった。右は解説者として仕事を共にした浅田顕さん。

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