大前 翔さんインタビュー(前編)/神童の挫折と苦悩
2025年のツール・ド・おきなわ市民200kmで、劇的な勝利を挙げた大前 翔さん。研修医として働きながらの快挙だった。かつては水泳のジュニアオリンピックで勝利したこともあるという彼は、なぜ自転車に転向したのか。なぜ大学を3年休学して愛三工業レーシングの選手となったのか。復学し就職したのち、なぜホビーレーサーとして復活したのか。大前 翔という特異な自転車乗りの知られざる半生をインタビューで紐解く。
水泳漬けの小学生時代
生まれは、今は自転車の街として知られる東京都稲城市。ご自宅の最寄り駅が東京の山間部への玄関口である矢野口だったという。
「幼稚園の頃、シャンプーハットを使ってもすさまじくお風呂を嫌がるということで、スイミングクラブに通うことになって。その水泳が楽しくて楽しくて、小学校に上がる頃には選手コースに入りました」
そうして、小学校時代は水泳漬けの生活を送ることとなった。

しかし、水泳一本ではなかった。ご両親の方針が文武両道だったのである。
「水泳と並行して、勉強に力を入れてました。幼稚園の頃から公文式の塾に通っていて、自分の学年より先の勉強をすると表彰されたりするんです。人と競ったり、表彰されたり、いい成績を出して褒められたりするのが嬉しくて、水泳も勉強も両方頑張ってました」
なんと小学校に上がる頃には因数分解に手を出していたという。
水泳も、レベルは半端ではなかった。
「やるからには日本一を目指そう、と週に8回は練習してましたね。両親も送り迎えで大変だったと思います。小学校4年生のときにジュニアオリンピックで背泳ぎで優勝して、自由形では3位に入り、年代別の優秀選手賞も取ることができて、いい成績を出せたんです」

伸び悩み、追い抜かれ……
しかし早くも苦難の時代が訪れる。
「そこから先が伸び悩みました。小5~6って成長期で、周りの子たちの身長が伸びてきて、僕は中学受験勉強が忙しくなって水泳の練習に時間を取れなくなるなかで、体の変化にトレーニングが追いつかなくなり、スランプに陥りました。第一希望だった慶應普通部(慶應義塾が設置する私立中学校)に進学して、水泳部に入って水泳を続けましたが、ベストタイムには届かない状態になってしまったんです。ジュニアオリンピックも、優勝争いをしていたところから、決勝に残るのがやっとになり、参加権を取るのでいっぱいいっぱいになり……。中学時代は全国大会に出るのもぎりぎりというレベルまで下がってしまって」
しかし、小学校時代は水泳の世界でいわゆる神童だった大前さん。当然、中学校の水泳部の中では有名人だった。しかも大前さんは水泳部の主将を務めていた。
「その子たちにどんどん追い抜かれていくわけです。そんななかで水泳を続けるのは精神的にかなりきつかったですね。小学校でジュニアオリンピックで勝ったときは、このまま水泳でオリンピック選手に……と思っていましたが、思うようにいかないことが多くなって。でも結局、そこからずるずると5年も水泳を続けてしまったんです」
かつての栄光が失われ、他人にどんどん抜かれていく。それは多感な時期の大前さんにとって過酷な経験だったろう。
医師の道へ
しかし、中学時代に出会ったコーチが大前さんの人生のかじ取りをすることになる。
「当時の水泳は根性論の世界で、『とにかく泳ぎ込んで速くなれ』という時代でしたが、スイミングクラブのコーチが運動生理学を理詰めで考えるタイプで、中学生相手でも『こういうことをすると体がこう変わるから、泳ぎを速くするにはこうするべきなんだ』ということを教えてくれたんです。根性論ばかりのなかで、僕にとってはそれがすごく目新しく映りました。自分の体を理解して、競技成績に結びつけるのって面白い!と思ったんです」
その出会いが、現在の職業である医師へとつながる。
「『人間の体を理解する』の究極はお医者さんだろうと。そう思ったのが中学2年生のときです。そのときから医師になろうと決め、医学部を目指すという具体的な目標のもとに勉強をがむしゃらに頑張れるようになりました」
一方、悩みながら続けていた水泳は、一区切りをつけることになる。
「日本一を争う舞台で自分が戦えないことが自分の中で許せなくなっていた中学3年生のとき、全国中学(全国中学校水泳競技大会)でチームメイトと頑張ってフリーリレーもメドレーリレーも優勝して、学校対抗別の総合優勝も達成したときに、『これで水泳はやりきったな』と」

自転車との出会い
しかしそこで、もうやめよう、ではなく、なにか別のことをやろう、と大前青年は考えた。
「YouTube でなにか面白い競技はないか、と探しはじめました。運動生理学に興味がわき始めていた時期だったので、理詰めで伸びていくスポーツがいいと思ったんです。かつ、高校から始めても日本一を目指せて、自然を感じられるスポーツがいいなと。水泳ってプールの底のタイルしか見れませんから(笑)。そんな条件で考えていたところ、YouTubeでツール・ド・フランスを目にしたんです。別府さんが出ている情熱大陸も観て、SRMを使ってトレーニングをしているシーンに惹かれました。自転車競技って自然の中でやるエクストリームスポーツに見えて、理詰めでトレーニングをするんだなと。これは面白そうだと思ったんです」
しかし、ご自身にとってもご家族にとっても、長年エネルギーを注ぎ続け、一度は日本トップレベルにまでなった水泳をやめ、全く違うスポーツに転向することには葛藤があっただろう。
「それはもう。父にも『10年も続けてここまで頑張ってきたのに、やめてしまうのか』と言われましたが、僕は軽々しい気持ちで決めたわけではないので、『水泳は僕にとってアイデンティティだったけど、もう日本一を争うようなレベルにはないのに、5年間も足掻いてきたのが辛い。好きだったけど嫌いになってしまいそうなんだ』と涙ながらに吐露しました。『でも、僕はそれで文武両道っていうアイデンティティまで捨てるつもりはないし、何か別の競技でチャレンジをしたいんだ』と。転向先の競技として自転車競技を選んだ理由もちゃんとプレゼンしました」
その熱意に負けたのか、ご両親はバイクとウエアを買い、大前少年は自転車乗りとなった。サイクリングロードで練習を始め、高校入学までに100kmは走れるようになった。そして、慶應高校に入学し、サイクリング部に所属することになる。

