TRYCLE 田渕君幸さんインタビュー(前編)/PBPとアメリカ横断と就職
PBP完走やアメリカ横断を成し遂げ、メンテナンスや洗車をメインとする新形態のショップを立ち上げ、パーツの代理店業も開始し、カフェを併設した2号店を開店し、イベントも手掛け……と、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで事業を展開するトライクルの田渕君幸さん。彼は一体どこへ向かっているのか――。2時間に渡るロングインタビューの全記録。
挫折のち、運命の出会い
93年、八王子生まれ、八王子育ち。
自転車の前はテニスに没頭していた。小学生のときに「テニスの王子様」を読んだことがきっかけだった。高校は冷暖房完備の屋内コートがあるようなテニスの強豪校に進学したが、プロを目指しているようなレベルの選手と接し、挫折する。
「これでは勝負にならない、とすぐにテニスはやめてしまいました。そのままだらだら高校生活を過ごして大学1年になったとき、今度は『弱虫ペダル』と出会うわけです。何の気なしに手に取って読んでみたら、『これだ!』と」
漫画に影響されやすいところがなんともかわいいが、しかし今度こそそれが運命の出会いとなった。
「大学まで電車で通ってたんですが、すぐ定期を解約して、そのお金を握りしめて中古ショップに行って、ロードもどきみたいな自転車で通学を始めたんです。それがスポーツバイクとの出会いです」
「最初は自分の頭の中にある地図が広がっていくのが楽しくて。『この道がここに繋がってるんだ!』みたいな。普通だったら電車で行くようなところまで自転車で走り回ってました」
自転車乗りの誰もが最初に受ける感動体験。当然、大学のサークル活動も自転車を選ぶ。
「とはいえテニスの苦い思い出があり、強制されたり部活に縛られたりするのは嫌だったので、部員を5人集めて自由に活動できる自転車サークルを立ち上げました。近隣の大学の自転車サークルに顔を出して、いろいろ勉強させてもらいました」
休学して渡仏、PBPへ
そうしてライドや合宿などを堪能していた大学時代、ある先輩が「ブルベってのがあるぞ」と教えてくれる。
「完走すればメダルがもらえて参加費も安くて、『セルフディスカバリー感があってすごく面白いからお前もやってみ』って連れて行ってもらったのがブルベでした。大学3年のときですね」
ここでいきなり話のスケールが世界に飛ぶ。その先輩が目標にしていたのが、PBP(パリ~ブレスト~パリ)だったのだ。それに感化され、田渕さんもPBPの夢を見始める
「次のPBPが開催されるのが僕が大学4年のとき。もしかしたら日本人最年少のPBP参加者になれるんじゃないかと。そこで、PBPを目指すことにしたんです。2015年、22歳のときでした」
とはいえ4年生は就活も卒論もある。
「悩んだんですよ。趣味を仕事にするか、趣味は趣味として楽しむか。みんなには『趣味を仕事にしたら嫌いになるぞ』と言われましたが、諦めきれない自分がいて。じゃあ1年休学してPBP含めて自転車を本気でやってみようと」
4年時を休学し、メッセンジャーをやりつつ資金を貯めて渡仏、PBPの時期は3カ月フランスに滞在した。自転車についていろいろなことを学んで帰国、「自転車を仕事にしよう」と決意する。
「球技などの他のスポーツは、そのスポーツしかできませんよね。テニスならテニス。サッカーならサッカー。でも自転車って、移動手段にもなるし旅もできるし、レースもブルベもオフロードも楽しめる。自転車という軸はぶらさずに、いろんなことができるわけです。仕事にして嫌なことがあっても、辛くなったら違う種目にいけばいい。僕は飽き性なので、レースに飽きたら旅をすればいい。旅に飽きたらグラベルにいけばいい。でも、根底にはずっと自転車がある、と。そう考えたんですね」
その言葉通り、PBP完走後はレースに没頭する。
「東京ヴェントス(2014~2019年に東京多摩地域で活動していた地域密着型プロサイクリングチーム)が立ち上がるときに声をかけてもらい、E3から始めてJプロツアーでも走らせてもらいました」
葛藤を経てアメリカ横断を決意
大学卒業後、選んだのはメーカーだった。
「ショップのアルバイトやメッセンジャーなどを経験させてもらったので、次はメーカーや代理店に就職して、もっと業界の中に入っていこうと考えたんです。国内大手メーカーも候補でしたが、『それほど世に知られていないメーカーの宣伝を手掛けてみたい』と思い、当時は今ほどメジャーではなかったコーダーブルーム(ホダカ)の門戸を叩きました」
無事ホダカに入社し、コーダーブルームの営業を担当することとなる。
「ホダカ勤務を2年経験したんですが、会社組織ならではの難しさも感じました。当時はSNSが盛んになってきた時期で、『これからは発信しないとだめだ』と思い、“タブチン”という名前で個人として発信しはじめたんですが、会社からは『ほどほどにしとけよ』と釘を刺されてしまって。個人的には『これからは情報発信の時代だろう』と思っていたので、葛藤はありました。実際に会社に迷惑をかけてしまったこともあり、葛藤はさらに深まっていきました」
「また、当時の僕の営業の仕方って、お店に行って『このモデルの青色が抜けてますよね、青を1台入れときましょうよ』みたいなもの。在庫をお店に押し付けるような営業しかできていなかったんです。メーカーとしては在庫を置いてほしい。お店としては在庫車を売りたい。となると、本来お勧めしたいものとは違うものをお客さんに売ってしまったり、サイズの合っていないバイクを売ってしまう、ということが起こり得る。そういう背景に違和感を覚えるようになりました。小売店は『売ることがゴール』。でもお客さんにとっては『買ってからがスタート』。営業の仕方や販売店のスタンスとユーザーの需要とのギャップにモヤモヤしてました」
理想と現実とのギャップは誰しも直面する問題で、多くの人は「これが社会というものだ」と、分かったような分からないような理由でなんとか自分を納得させて、愚痴を言い合いながら、つまらなくも安定した人生の歩を進めるものだ。しかし、せっかく趣味である自転車を仕事にした田渕青年、自分で自分を言いくるめるようなことはしなかった。2年間のモヤモヤの結果、「そうだ、アメリカを横断しよう」と思い立つ。
「当時はYouTubeが盛り上がっていたときで、自分の好きなことを発信してキラキラと輝いている人達がたくさんいました。僕もまだ20代前半だったし、彼らのように好きなことでチャレンジしたいという想いが漠然とあって、アメリカという大陸に憧れを抱いていたこともあり、自転車でアメリカを横断しようと。当時は20代で独身だったので、失うものなんてありませんから」
24歳のとき、退職理由の欄に「アメリカ横断のため」と書き、ホダカを退職する。それを若者特有の無茶で無謀な挑戦と断ずるのは容易いが、このチャレンジ精神と行動力は、当時の田渕青年から現在の田渕さんに通底する軸である。
帰国後の新展開
しかも、これはただの横断ではなかった。
「テーマを設けようと思ったんです。ホダカ時代に築いたコネクションを活かしてスポンサーを集めて、支援の力で実行しようと。キャノンデールからトップストーンを一台サポートしていただき、オルタナティブの北澤さんにはアピデュラのバッグ一式、シェアサイクルのチャリチャリをやられている家本さんやEXLUBの柴沼さんには資金面でバックアップしてもらい、なんとか実現できました」
そうして2019年4月にサンフランシスコを走り始め、3か月かけてからボストンまで走破。朝起きてテントを畳んで走り出して、日没まで走って一回も曲がっていない日もあったという。
「普通にからまれるしワニはいるし銃声は聞こえるし。月並みな表現ですが、人生観が変わりましたし、『簡単には死にゃしない精神』が培われました」
そうして約8000kmの旅を終え、7月に帰国する。
「帰国したはいいものの、無職&ノープランです。でもこれからは発信の時代だと感じていたので、自転車業界外のメディアで学んでノウハウを業界に持ち帰ろうと考えました。実際にメディア業界に就職が決まりかけていたんですが、そんなとき、ヴェントスの二戸康寛監督から連絡をもらったんです。ちょうどヴェントスが活動停止するタイミングですね。『チームの拠点(サイクルゲート)を閉めるから、お前そこでなにかやらない?』と」
(後編に続く)