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梶原悠未さんロングインタビュー(後編)/上を向いて走ろう

梶原悠未さんロングインタビュー(後編)/上を向いて走ろう

高校から自転車競技を始め、瞬く間に世界に通用する日本人選手へと成長した梶原悠未さん。2021年に行われた東京オリンピックでは銀メダルを獲得し、自転車トラック競技では日本人女子として初のメダリストとなった。しかし夢はあくまで「オリンピックで金メダルを獲ること」であり、2024年のパリオリンピックではそれが期待されたが……。沖縄で合宿中の彼女にリモートインタビューを行い、高校生のときからビオレーサーがサポートをしている梶原悠未という一人の選手の、今とこれからに迫った。
※【梶原悠未さんロングインタビュー(前編)/メダリストの苦悩】はこちら

疲れ切った心

まず率直に、パリオリンピックの結果について。

「金メダルには程遠い結果でした。オリンピックの前にいろんなことがあったんです」

詳述は避けるが、ご家族が相次いで重い病気に見舞われるなど、苦難が重なった。それは、愛する家族との離別が頭をよぎるほどのものだった。ご家族が入院し過酷な治療を受けるタイミングとオリンピックが重なる。心労は体を蝕んだ。体と心を切り離すことはできない。

「それまでは『何が起きても自分は乗り越えられる』と思っていたんです。不安や試練を乗り越えることも金メダルへの道だと。でも4月に強度を上げることができなくなってしまったんです。これまでたくさんサポートをしてくれた家族が病気と必死に闘っていたので、私も競技に集中して家族に金メダルを持ち帰って元気づけたいと思っていたんですけど、いろいろ背負いすぎちゃって」

金メダルを獲らなければ報われない―― その想いの強さ、家族に対する優しさが、裏目に出てしまったのかもしれない。詳しくは書けないが、ご家族の病気以外にも、メンタルを蝕む出来事が重なる。

「いろいろなことがあり、オリンピックの当日、スタートラインに立ったとき、心のエネルギーが空っぽだったんだと思います。体は仕上がっていたと思いますが、心が疲れ切ってしまっていて、戦えるエネルギーが一つも残っていませんでした」

そうでなくとも、世界中の注目が集まる舞台に国の期待を背負って立ち、全世界から選び抜かれたライバルと闘うというそのプレッシャーは、我々一般人の想像を遥かに超えたものだろう。

 

パリでなにがあったのか

8月6日、梶原さんを含む4名で臨んだ女子チームパシュート。日本新記録を更新したものの、10位で予選敗退となる。

8月12日、梶原さんが「金を獲ります」と宣言していた女子オムニアム。1日のうちに異なる4種類のレースを行い、総合ポイントで順位を決めるトラック競技で、瞬発力、持久力、戦術の組み立てなど、すべての能力が求められる。

当日の辛い記憶を掘り返すのは申し訳ないと思ったが、彼女は気丈に話してくれた。

「1種目めのスクラッチはレース展開は読めていたんですが、『動くにはまだ早い』と踏みやめてしまい、弾かれてしまったんです。2023年に落車して大怪我をしたトラウマが残っていて、他の選手たちに囲まれて体に力が入らなくなってしまったんです。その1種目めで金メダルに手が届かない順位(16位)になって凍り付いてしまって。2種目めでなんとか切り替えようと思っていたんですが、また下位(17位)に沈んでしまいました。3種目めのエリミネーションも下位(21位)で降ろされて、悔しさの前に『何が起きているんだろう?』『どうしよう?』という感覚でした」

このとき、会場に来ていたお母さんが電話で「大丈夫だから。最後のポイントレースは自分のために走って」と言葉をかけてくれたという。

「生まれてから今までずっとサポートをしてくれている母と会話したことで『挑戦しよう』という意欲がわいて、最後のポイントレースではポイントを獲って9位だったんですが、最終順位は17位でした」

レースを終えて自転車を降りた瞬間、感情がこみあげてきた。

「『あぁ、辛かったなぁ』って。この3年間、東京のとき以上にいろんなことがあって、本当に辛かった。試練があるなかでも一生懸命練習を続けてきたけど、なんにも努力していないような走りをしてしまった。自分で自分の努力を全部水の泡にしてしまった」

 

「私は自転車が好き」

オリンピック後は2週間の休息をとった。

「そのときは自転車に乗りたくもないし見たくもないって思ってましたから。2週間好きなものを食べていたら、体がちょっとぷよぷよしてきてしまったので(笑)、『ダイエットのために乗るか』と思って乗ったんです」

そこで、自転車に対する意識が変わったという。

「これまでは、『勝てるから楽しい』『勝てるから自転車に乗ってる』だったんですけど、そのときに、『私は純粋に自転車好きなんだな』って思ったんです。なんの理由もなく、ただ走っているだけで気持ちいいし、楽しい。自転車を始めて10年が経ちますが、初めて自転車が好きだって感じられて、この気持ちで乗り続けようって思えました」

これは大きいことだと思う。競泳の代替案として自転車を始め、一気にスターダムに駆け上ってきた梶原さんだから、自転車は「勝つための手段」だったのだろう。しかし、そこに「好きだ」が加わると強い。「好き」はときに、何にも勝る武器になる。

知人に勧められてメンタルトレーニングも始めた。

「プロのカウンセリングを受けていろんなことを話して、そこで初めて、自分の気持ちと向き合ってこなかったんだってことに気付けました。ネガティブなことが起きる度に、『これは金メダルへの道のりなんだ』って言い聞かせていました。辛いことや苦しいことが起きても、自分が『辛い、苦しい、しんどい』って感じる前に無理矢理にポジティブに変換していた。でもそれって本当のポジティブシンキングではなく、感情を殺していただけだったんですね」

 

重なる試練

そんな辛いオリンピックを終え、束の間の休息をとり、立て直そうと9月の全日本選手権に向けてトレーニングを始めるが……。

「オリンピックが終わり、『たぶん試練はここまでだったんだ』って期待してました」

しかし、神様は追い打ちをかけるように彼女に試練を与えた。

9月の全日本選手権。

「初日のエリミネーションは優勝できました。2日目のオムニアム、スポンサーの方々や友達もファンもたくさん応援に来てくれているから、どうしても勝ちたいって思っていたんですが、落車に巻き込まれてしまって」

「体も痛かったんですが、なにより心が折れて起き上がることができませんでした。心が折れるときって、本当に折れる音が聞こえるんだなって思うくらい。パリのときに、『試練はここまでだったんだ』って勝手に期待してしまっていたので、『まだ試練あるじゃん』『いつまで続くの?』って。『この体を捨ててしまいたい』『体から離れたい』とまで思いました。そのときが一番辛かった」

脳震盪と全身打撲により、翌日以降のレースを欠場。

「お尻から落ちてしまったので、梨状筋が肉離れを起こして座骨神経が腫れてしまいました。それによって座骨神経痛が残り、自転車に乗ると左脚全体が痺れて力が入らなくなってしまったんです。これが後遺症として残ったら選手生命終わりだなって不安で……」

 

自分の感情と向き合う時間

10月の世界選は、「今はまだナショナルチームでベストパフォーマンスを発揮させることはできない」と判断し、辞退する。

「高校2年のときから8年間ずっと世界選には出ていたので、世界選に出ないことが考えられなくて、ギリギリまで悩んだ結果、『今年は出ない』という決断をしたんですが、そのおかげで自分の気持ちに向き合う時間ができたんです」

「今までは『勝てそうだから出る』とか『スポンサーさんのために出なきゃ』という外発的動機だったんですが、このときに『わくわくするから』『走るのが楽しいから』という自分の中の感情(内発的動機)に気付いて、その感情と対話をすることができました」

大好きな自転車で、大好きなレースを走る。

そう思えるようになれば、たぶん梶原さんはもっともっと強くなる。

人生、70年だか80年だか。その歩みを進めるなかで、大小の差はあれど、誰しも数々の試練にぶち当たる。乗り越えられない人もいるから「試練はあったほうがいい」なんて言えないが、試練を乗り越えたことで、人は必ず強く優しくなれる。

「そうですね。今では、それ(家庭の試練とパリオリンピックでの不調)を経験できてよかったと思ってます。たぶん、パリでメダルを獲ってメディアに出て忙しいオリンピック後を過ごしていたら、どこかできっと精神的に崩れていたと思います。今までの私は『悔しい』『負けたくない』という気持ちだけでやってきて、ものすごく自分を追い込む思考でした。でも競泳から20数年間ずっとそれを続けてきて、疲れちゃったんですよね」

自転車選手として成長するなかで、今が「変わるとき」だったのだ。今回の試練はそのきっかけだったのかもしれない。

 

理想の走りを

インタビュー時間は30分という約束だったのに、梶原さんは涙を流しながら1時間以上も心情を吐露してくれた。辛いことを思い出させてしまってごめんなさいと言うと、話しを聞いてくださってありがとうございましたと言ってくれた。少しほっとした。

最後に今後の目標を聞いた。

「パリの後は『メダリストじゃなくなった自分には価値がない』って思ってたんですが、いろんな人に『感動した』『これからも応援する』って言ってもらえて、私は本当に幸せだなって痛感しました。今後はまずトラウマを克服して、心と体のリハビリをして、内発的動機をエネルギーにして自分の理想の走りを目指します。もちろん目標はロスオリンピックです」

しかし、梶原さんの目に映っているのはロスだけではない。

「これから先、オリンピックには5大会出たいんです。子供を産んで復帰して、1年でも長くアスリートをやりたい。その夢に向かって進むために、今は辛いけど変わるときなんだと思います」

これからさらなる快進撃を続けることになるであろう梶原さんは、レースでのライバルだけでなく、羨望と嫉妬とも戦わなければならないだろう。ときに圧力と妨害を受けることもあるかもしれない。しかし今回の試練を乗り越えたことで得られた強さと優しさ、乗り越える道中で気付いた「自転車が好き」という感情は、必ず梶原さんの味方になる。

それを駆動力にして、涙を拭いて上を向いて走り出して、全自転車乗りの究極の夢である「理想の走り」を追い求めてほしい。強くそう願わずにはいられない。

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