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Interview

【BIORACER MEDIAインタビュー ~バイクショップスネル 諏訪店長~前編】 オランダでの啓示

バイクショップスネル 諏訪店長インタビュー オランダでの啓示

強豪シクロクロスチームを主宰し、数々のチームのメカニックを務め、近年ではJプロツアーチームの立ち上げにも関わり、若手育成チームを創設し……と、いちショップの枠に留まらない活動をされているバイクショップスネルの諏訪店長。インタビューを通して、その原動力に迫った。

多摩サイで自転車の道へ

数多ある自転車ショップ、そのコンセプトも方向性も店主の人格も様々だ。そんな中、異色の一店がある。東京・大田区のバイクショップスネルである。

多摩サイを走って川崎競馬練習場のあたりで東京側に曲がり数分走ると、住宅街の中にマニアックなバイクをたくさん並べた店舗が見えてくる。店内で常連さんたちと談笑しているのが、店長の諏訪孝浩さんだ。

「多摩川のすぐそばに住んでいたので、野球をしたり釣りをしたりと遊んでいた場所のすぐ隣がサイクリングロードだったんです。自然と、自転車をロードっぽく改造して多摩サイを走るようになりました。スポーツバイクに本格的に乗るようになったきっかけは、今オルベアをやってる石黒さん(オルベア・ジャパンの石黒誠司さん。90年代にスペインでレース活動を行い、後に販売業を手掛けることになり、代理店サイクルクリエーションを立ち上げる)。家が近くて、なぜか『一緒に走らない?』って中学生の自分を誘ってくれたんです。自転車に一生懸命乗ってるヤツがいるから声かけてみるか、くらいだったんでしょう」

「そうして多摩サイを一緒に走るようになり、そのうち『こんな自転車レースがあるよ』と教えてもらって、ロードレースに出るようになりました。初レースは中3のとき。群馬CSCのパナソニックカップだったかな。だから、石黒さんがいなかったらこの業界に入ってないかもしれませんね」

そうして「自転車で競争をする」という世界に飛び込んだ諏訪さん、様々なチームに所属してレース経験を積み、どんどんのめり込むことになる。

「初めてチームに入ったのは、羽田にある桑原商会という自転車屋さんがやっていたゲッポレーシング。そこでスドーマン(元選手で現在は女子チームの運営など幅広く活動されている須藤大輔さん)と一緒に走るようになって、246を引き回されてました(笑)。その後、カメダサイクルがやっているカメダレーシングに入り、実業団登録をして本格的にレース活動を始めました。草レース全盛のときですね。その後はチームユキリンに所属し、ツール・ド・おきなわも実業団選抜の上位で出ることができました。とにかく仲間に恵まれていました。周りに強い人がいっぱいいて、環境が良かった。それが大きいと思います。レースを続けるには、一人だと難しいですから」

そして24歳になった諏訪青年、なんとオランダに武者修行に行くことになる。

「オランダ行ってプロになるか」

「登戸にあったサイクルショップリンリンというショップのチームに出入りしていたとき、お客さんにオランダ人の方がいたんです。その人が『オランダに帰ることにしたから、一緒にオランダ行かない?』と誘ってくれて。そこでチームメイトと二人でオランダにレースをしに行くことにしたんです」

「今だと、ジュニアの頃から海外に出てプロになるというプロセスが正解だと分かってきましたが、当時はそういう情報もなんにもなかったので、『ヨーロッパ行きゃプロになれんだろ』という軽~い気持ちで(笑)。競技を始めてずっとフリーターでしたから、気楽なもんです」

軽~い気持ちとはいえ、当時はインターネットも未発達で、スマホどころか携帯電話もない時代。レースに対する情熱がなければできない行動だ。

「初めての海外だったので、右も左も分からない。今みたいにウェブもないしスマホもない。公衆電話でやりとりする超アナログ時代ですからね。『○○駅で○時に待ち合わせね』といっても、携帯がないから会えないわけです。電車の乗り方も分からないから、そもそも駅までも行けない(笑)。自転車以外のことがカルチャーショックすぎました」

「到着して最初にしたことは、地図と自転車競技雑誌を買うことです。そこに、『○月○日にどこでどんなレースが行われる』という情報がたくさん載ってるんです。それを見て、地図で開催地を調べて、『50kmか、なんとか行けるな』と地図を見ながらレースに行く。シェアハウスで外国人数人と一緒に暮らしながら、そのオランダの方にショップとかクラブを紹介してもらって、現地のレースにたくさん出場しました」

「オランダのレースは日本に比べてなにもかもが過酷でした。日本とは集団の密集度が違ううえに、雨が多くて寒くて道が悪い。向こうのレーサーは天候に左右されずにしっかりトレーニングするのが印象的でしたね。雨でもいくら寒くても待ち合わせしてトレーニングする。日本とは感覚が違いました。最初の滞在は三カ月。最初から最後まで珍道中でしたが、いろんなことに挑戦できたのはすごくいい経験になりました」

実情を知った者の義務

そのオランダで、国内外のレースに対する環境の違いを痛感する。

「例えば、クラブのトレーニングレースはジュニアから女子からエリートまで一斉スタートなんです。ジュニアのレースがまず終わり、次に女子のレースが終わり……という感じでレースが進んでいくんですが、要するに序盤はジュニアもエリートも一緒に走るわけです。ジュニアの子はジュニア規制のギヤでぶん回して必死に大人に付いてくる。『あぁ、こっちの子はこうして強くなっていくんだな。こりゃ24歳でこっちに来ても遅いな』と悟りました。これはプロになるとか言ってる場合じゃないな、と」

それでもオランダでのレース活動を諦めなかった。

「当時のオランダって、アマチュアでも結構食えたんです。参加費がタダで、レースの賞金があったので、トップアマだとそこそこ生活できるるんですね。プロは無理だけど、それならなんとか……と思って、自分で向こうのチームの監督にコンタクトをとって何シーズンかレース活動をしました。でも結局、レベルが高くて無理でしたね。クリテリウムも鬼のように速いんですよ」

日本と自転車の本場であるオランダのいかんともし難い差。それが、今の仕事に繋がることになる。

「オランダはレース数も多いし、過酷だし、先にも言ったように小さい頃から速くなる条件が揃っていて、プロを目指す環境が整ってるんです。日本で『ツールに出たい』『ヨーロッパで走りたい』って思ってる若い子は多いと思いますが、そのためのプロセスを知っている日本人はほとんどいなかった。日本ではJスポーツで見るツールを漠然と目指しているだけですが、向こうにいるとそこまでのプロセスがきっちり見えるんです。厳しくはあるけど、筋道が用意されているので、ステップを踏んで強くなっていけば到達できる」

だからこそ、カルチャーショックは大きかったという。

「海外で走りたいなら日本にいちゃだめです。日本にいながらツールを目指すのは、フランス人がフランスに住んだまま力士を目指すようなもの。フランス人がフランスでずっと四股踏んでるだけではどうにもならない。フランスにいたって横綱にはなれない。もしやる気のある若い子がいるなら、そういうことを速い段階で教えてあげて、アドバイスしてあげたいと思いました。今は選手の成長が早いですからね。19歳くらいでワールドツアー行っちゃう」

「また、向こうは実力的に無理なら『プロは無理だ』ときっぱりやめちゃいますが、日本はある意味ヌルいので、続けようと思えばダラダラ続けられちゃう。確かに日本には実業団があるので、『そこで食っていこう』と切り替えるのはいいと思います。引退後はそのまま就職できる可能性もあるし。でも本場であるヨーロッパでやろうとなると、誰かが導かないといけない」

“誰かが導かないといけない”―― その“誰か”になるべく、諏訪さんは帰国後にクラブチームを有するショップを立ち上げる決意をする。その話は後編にて。

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