高岡亮寛さんインタビューvol.1 「世界は遠かった」
RX BIKEのオーナー、強豪チームRoppongi Expressのリーダー、そしてカリスマホビーレーサーとして知られる高岡亮寛さんが、2024年9月にデンマークで行われたグランフォンド世界選手権45-49歳カテゴリにて優勝、遂に世界チャンピオンになった。これを機に、ビオレーサーメディアはインタビューを行い、高岡さんの半生を追うことにした(全3回)。vol.1は、自転車との出会いから、学生時代のレース活動について。
自転車との出会いと、レースへの傾倒
多くの自転車乗りがそうであったように、高岡少年もまた、幼少期に自転車の自由さ、行動範囲の広さ、拡張性に魅了された。自転車で走り回るにはいい環境が揃っている神奈川県秦野市出身だったことも後押ししたのだと思う。
始めてのロードバイクは、平塚のヒジカタサイクルというショップのオリジナルバイク。タンゲ・No.2のスチールフレームに、シマノ・105。マヴィックのリムを使った手組ホイール。中学2年のときだった。そうして週末になると一人でサイクリングを楽しんでいた高岡少年を、レースに誘った友人がいた。
「雄二に『今度レースに出ましょうよ』って誘われたんです」
“雄二”とは、アトランタオリンピックにも出場した名選手、鈴木真理さんの弟である鈴木雄二さんのことだ。鈴木兄弟のお父さんは当時実業団チーム(チームアトランタ)を運営しており、高岡さんは後に大いにお世話になったという。
「初レースは高1のときだったと思います。父に群馬CSCのレースに連れて行ってもらったんです。それまでスポーツは陸上をはじめいろいろやっていたんですが、陸上ってある意味、すごくシンプルなんですよ。1500mの持ちタイムがあって、その速い順に順位が決まって、おしまい。持ちタイム(=身体能力)でほぼ結果が決まってしまいます」
「でもロードレースは違いました。同じような実力の選手でも、上りが得意か、平地やスプリントが強いのか、逃げが得意なのか……などのいろんな要素があって、『レースに勝つ』という同じ目標に対して、いろんな脚質の選手がいろんな作戦を立てて、同じコースを走る。速い選手でも、レースの展開によって勝てたり勝てなかったりする。そこが陸上との決定的な違いです。そういうゲーム性が面白かった。今から考えると、それがロードレースにはまった理由でしたね」
そうしてロードレースの世界に飛び込んだ高岡さん。後にプロ選手として活躍することになる鈴木真理さんと一緒に練習するようになり、実力をつけていく。高校には自転車部がなかったので、学校にお願いして自転車部をつくってもらったというから、その活動はかなり本格的だった。
世界選に出たものの……
そうしてたった一人の自転車部員として、トラック競技を含め本格的にレース活動を開始。そして高校3年のとき、一度世界選への切符を手にしかける。富士スピードウェイと修善寺CSCの2ステージで行われた国際ロードに出場し、初日は5位、二日目は優勝。総合成績は3位だった。
「このレースの1位と2位がその年のロード世界選のジュニア代表になったので、あと一歩のところで世界への切符を逃してしまったんです。すごく悔しかった」
96年、慶應大学に進学すると同時に、当時国内最強と謳われた実業団チーム、日本鋪道(現TEAM NIPPO)に加入。翌年は、浅田 顕さんが率いるクラブチーム、リマサンズのメンバーとなり、ツール・ド・東北やツール・ド・北海道などの本格的なステージレースにも出場、経験を積む。
リマサンズ2年目となる98年、あのときの遺恨を晴らすため、高岡さんは大学を一年休学し、自転車競技に打ち込むことを決意。チームの合宿所の近くへ引っ越しまでして練習を積み、98年の全日本選手権では3位となって表彰台へ。見事U23カテゴリのロード世界選への出場権を獲得する。
そして、オランダで行われた世界選で、人生初となる海外レースを経験した。
しかし、高岡さんは「走るだけで精一杯だった」と回想する。結果は、完走こそしたものの、トップ(優勝者はイヴァン・バッソ)から22分ほど遅れて、130位。最終完走者だった。
続けようとは思わなかった
99年、リマサンズを離れて大学に復学し、インカレで優勝。学連のロードランキングでも2位となる。98年には世界との壁を痛感しただろうが、そこまでの実力があれば、国内でプロ選手になることはできたはずだ。しかし高岡さんはこう話す。
「プロになることは全く考えなかったですね。自分がプロになることが想像ができなかったというか。中学生のときから、テレビで深夜やっていたツール・ド・フランスを見て憧れてはいたんです。でも、目指す場所にはならなかった。自分にとってその世界は遠すぎるというか」
「高校のときから、鈴木真理くんという日本のトップ選手が身近にいたんですよね。彼は僕が高校生のときに実業団に入って日本のトップレベルに達して、アジア選手権や海外レースも経験していた。自分より強かった彼でも、国内で勝てるレースと勝てないレースがあるわけですよ。ツール・ド・フランスに出るようなトップ選手の世界は、その先の先の先。あまりに別世界というか、自分が行けるような場所とは思えなかったんです。それはわりと早い段階から分かってました。だからといって日本でプロ選手になりたいかといわれると、それも違うなと。だから、大学卒業後も競技を続けることは一回も考えませんでした」
そうして2001年、卒業と同時に外資系金融機関に就職、本格的な自転車の世界からは遠ざかることとなる。
※Vol.2では、就職後に復帰したレース活動、立ち上げたチームやショップ、現在の自転車業界の問題点、そして近年のライフワークである世界選手権への挑戦について言及する。
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